高島

軍艦島から間近に見える高島。その高島は、軍艦島と同じ石炭の島でした。 全盛時は、島の人口が約2万人を数えた時もありましたが、炭鉱閉山後は社宅や 炭鉱施設等が解体撤去され、石炭の町として繁栄した時代の面影が消えました。 このページは、激動時の島の様子と、変貌する以前の懐かしい風景を主に紹介。 現在の姿からは想像も出来ない、在りし日の高島の姿を見て頂ける様にしています。

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当サイトでは、高島と同様に石炭の歴史を持つ「軍艦島」や「池島」も紹介 しております。何れの島も高島から見える位置に存在し、石炭で栄えた時代 がありました。しかし、閉山によって軍艦島は無人島に、池島は閉山以前の 姿をほぼ止めているものの、人口が激減して寂しい島になっています。 炭鉱閉山後の高島は、炭鉱から観光、石炭から魚へと、歩みを変更。 石炭発見の地と言われ、105年もの間石炭採掘を行った島は、釣り公園や 海水浴場のある観光の島へと姿を変えました。池島・高島・軍艦島それぞれに 炭鉱閉山後に辿った道程に違いはありますが、個々の島を実際に訪れること によって感じるものもあると思います。高島を訪問された際には、 軍艦島や池島も尋ねられることをお勧めします。



高島の撮影に取り組んだ理由

石炭産業が最盛期の昭和20年代後半、日本に約800あると言われた炭鉱。 しかし、国のエネルギー政策の転換などにより、主役が石炭から石油に変わり、 国内の炭鉱は次々と閉山に追い込まれていきました。
三菱高島炭鉱も昭和60年4月の爆発事故を機に翌年閉山しました。 爆発事故の時、私は3番方の仕事を終えて坑内人車で昇坑中、事故の爆風を感じました。 この時の爆風は、今でも忘れませんが、坑内の掘進、採炭の現場でダイナマイトを使用 して行う発破と同じ爆風でした。この事故で11名が死亡、その後出炭量が大幅に減少 して赤字を累積。そのため翌年の春以降、三菱高島炭鉱閉山かといった噂が地元で広がり、 報道関係者の姿も目立つため、噂は本当で、閉山は近いのではと肌で感じるようになりました。
閉山直前の高島小学校の運動会は、見納めで最後の運動会と感じたのか、 例年になく盛大でした。そして昭和61年11月27日、三菱高島炭鉱は105年の歴史 に幕を閉じました。閉山すると島はすぐに変化。島を去る人たちが先を争うかのように 引越しの荷造りや、トラックへの積み込みが連日行われ、港では一日何回も惜別の 紙テープが舞い上がりました。このような光景を毎日、繰り返し見ているうちに故郷で 大変な事が起きていると実感するようになり、激動期の高島の姿を写真で記録することを 決意しました。



高島で炭鉱マンになったときの記憶

28歳の時に東京から故郷高島へUターン。職安で仕事を探しましたが、内容、 賃金ともに満足できるものはありませんでした。ところが、地元に比較的高収入が 得られる職場がありました。それが、高島炭鉱でした。働く男の殆どが高島炭鉱 またはその関連企業で働いており、父も炭鉱マンでした。 この様な環境もあり、体力に自身もあったので、炭鉱マンとして働くことになりました。
職場見学のため地底へ下がり、採炭現場へ行った時はとても驚きました。 そこには急角度のクレパスが大きく広がっていました。真っ暗なため、作業員の キャップランプの光が見える意外は、私のキャップランプの光が届く範囲以外は 見ることが出来ませんでした。そこは石炭の採掘が終わった空間で、天井は低くなっていて、 直立状態で歩くことは出来ませんでした。また、そこには無数の鉄柱が林の木々の様に びっしりと立ち並び、天井が一気に崩落しないように支えていました。
初めて地底に下がり、そこで見た光景は余りにも衝撃的で、今も記憶の中に鮮明に残っています。 私は掘進の現場で働くことになりました。掘進とは、簡単に言えばトンネルを掘る仕事です。 掘ると言っても、「つるはし」や削岩機を使って手堀りするわけではなく。 ドリルで炭壁または岩盤に無数の孔を開け、ダイナマイトを装填して発破。 粉々になった石炭または岩石を、ブルトーザにも似た重機で炭車に積み替え、 搬出。その繰り返しで坑道の掘削を進めるのです。 現場は気温や湿度が高く、気分が悪くなって仕事が出来なくなったこともありました。 飲み水は欠かせず、普段でも1.8リットル入る水筒を持って行きましたが、 始めのころはその水筒を2本持参したこともありました。坑内では重量物を扱います。 坑道を支える為にアーチ枠を使いますが、作業の流れの中では1本ずつ担いで運びます。 慣れるまではアーチ枠が肩に食い込み、皮膚が裂ける様な痛さを感じました。
高島炭鉱では一度造った坑道も時間と共に変形して潰れるのが早く、その修復工事は大変でした。 修復が追いつかず、炭車の搬入、搬出に支障を来たした事もありました。 また、炭鉱マンになって1ヶ月もたたない内に、事故で死亡した仲間の炭鉱マンを地上まで運んだこともありました。
高島炭鉱での7年間にはいろいろありましたが、大きな怪我をしなかっただけ幸いでした。 高島炭鉱が閉山したときは、もう二度と炭鉱で働くことは無いと思っていました。


少年時代の記憶、父の記憶

一番印象的に記憶に残っていることは、雨の日に父親へ傘を届ける為に進発所へ行った ときのことです。地底から上がってきた炭鉱マンの中から父の姿を見つけることは簡単 ではありませんでした。坑口から出てくる炭鉱マンは、降り積もった炭塵で真っ黒な顔 をしており、目と歯だけが見えるという状態でした。
この為、急ぎ足で出てくる大勢の炭鉱マンの中から父を見分けることは困難でした。 この為、父が風呂から上がって出て来るまで待つことは普通のことになっていました。 また、雨の日には傘を持って夫を迎える妻の姿も沢山見られました。 真っ黒な姿のまま、風呂に向かう様子を私と同じ位置から見ていました。 果たして、その凄まじいまでの真っ黒な姿の夫を見て妻はどの様に感じていたのでしょうか。 父は坑内のことを話したことはあまりありませんでしたが、坑内で起きた事故のことは 何回か聞いたことがあります。採炭現場で天井が一気に崩れて10数名が下敷きになった ときのこと。炭車に轢かれてバラバラになった炭鉱マンのこと。ベルトコンベアーの ローラーに全身を巻き込まれて死亡した炭鉱マンをそこから引き出す作業をしたときの こと等が記憶に残っています。

高島の概略

長崎県長崎市高島町。長崎港から約16km南西海上にあり、東西1km、南北2km、 周囲約4kmの島。石炭発見の歴史は古く、1695年に五平太なる人物がこの高島で発見。 製陶用燃料、製塩用燃料として使用されていたとの記録が残っている。 1868年にはイギリス人商人トーマス.グラバーの協力の元、高島炭鉱として始動。 一時期官営になるも1881年に三菱の所有となり、以後105年間地底より石炭を産出。 開鉱以来の総出炭量は約4000万トンに達した。最盛期は2万人を超す人口を数えた こともあるが、閉山後に激減し、現在は700人台で推移している。 高島までは長崎港から高速船「コバルトクイーン」が就航しており、乗船時間は約35分。


現在の高島

高島炭鉱閉山からおよそ20年。寂しさを感じさせる風景は一掃され、 飛島釣り公園、海水浴場 、海水温浴施設、多目的運動公園などが整備され、夏場は海水浴客が、 平日でも釣り客が訪れるようになっています。
光と風の記憶    高島倶楽部

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2009.04.05 カウンター設置
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