1988--2002

1枚づつ見る
夜、対岸から池島を見ると、小さな島でありながら無数の光りで輝き、 島が生きている様子が良く分かりました。島の輝きと、形良く撮れる 絶好のポイントを探すと、大瀬戸側高圧送電塔直下に隣接した墓場が 一番でした。撮影が終わるのは21時−22時になることも多かったので、 墓場の中にテントを張って一夜を過ごすこともありました。




島内循環バス終点傍の8階建てアパートから撮影していますが、当時は車の 通行量も多く、アパート群も光輝いて島の息吹きが感じられる状況がありました。




進発所には、海面下650mの地底に通じる第二立て坑が存在。主に作業人員の 入昇降用に使用されていました。やぐらは今も操業当時の姿を止めていますが、 坑口はコンクリートで密閉されていて、二度と動くことはありません。




貯炭場は思いのほか広く、結構な量の石炭を貯炭できることが分かります。 採炭現場の採掘条件が良い時は、貯炭場は石炭で一杯になりましたが、 断層や出水などがあると採炭量が減って貯えが少なくなりました。 空中軌道の上には移動可能な放炭機が乗っており、地底から掘り出した石炭 を放炭していました。




撮影を始めた当時は、島の高台でもボタを積んだトロッコが走る様子を 見ることが出来ました。トロッコは学校の側を抜け、裏側まで行って停止。 高台からボタを捨てていました。早朝に良く見られた光景でしたが、 何時の間にか運行が停止。その後、この場所で同じ光景を見ることはなくなりました。




石炭運搬船が入る港地区には炭鉱従業員や家族の為の住居があり、炭鉱の 施設とも隣接。トロッコの行き来も日常風景の一つになっていました。 この為、トロッコが行き来する様子を眺める子供達の姿も時々見られましたが、 その光景は私の幼少期の記憶と重なるものがありました。




島には5000トン級の船も入港できる湾が存在しますが、この湾は元は 池島の名の言われとなった鏡が池を海側へ切り開いて造り替えたものです。 旅客船も入れると一日に30便以上の出入りがありましたが、大型の石炭 運搬船が入港した時は、普段は広く見える湾も一気に狭く感じられる様 になりました。




早朝、池島港に第一便が入ると、新聞を担いで慌しく走り抜ける姿が見られました。 島の一日の始まりを感じさせる何時もの光景になっていました。




住宅街の片隅では、野菜や魚の行商を行う姿が良く見られました。 ヤマの情感を感じさせる光景でもあったので、出会ったときは とても嬉しくなりました。




炭鉱の仕事は、24時間3交替で行われます。写真は二番方の通勤風景です。 着替えや弁当を持ち、作業着のままで出勤する光景は良く見られました。




進発所には、各現場のグループ責任者(係員)の為の事務所がありました。




繰り込みが始まるまでの間、坑夫はゆったりと時間を過ごします。 繰り込み場には、入坑20−30分前までに来る例が多かったのですが、 中にはもっと早く来ていて、繰り込み時間になるまで外でのんびりと 時を過ごすものも少なからず居ました。




入坑前の一時を撮影していますが、一緒に働いた仲間が多く写っています。 比較的若い人が多いのですが、現場や作業、ヤマを熟知した実力者揃いでした。




繰り込みが始まると、現場の状況や連絡事項、怪我があった時はその状況など が伝えられました。撮影を始めて間もない頃でしたが、辞める者が多いのか、 出勤者が少ないのか、各現場へ配置する作業員が不足し、困り果てている 状況が見られました。




地底へ入るには、明かりを欠かすことは出来ません。腰に付けているものの一つは 電池ですが、ヘルメットに付けたキャップランプとセットになっていました。 また、地底では火災や爆発事故も起こらないとは限らないので、有毒ガス発生時に、 ガスを無毒化する防毒マスク(COマスク)も、常時携帯した状態で作業する決まりに なっていました。




地下650mまで降りると動力車で牽引される人車で移動しました。実際の作業 現場はかなり遠いので、移動手段としての人車は必要不可欠なものでした。 ただ、簡易な造りなので乗り心地は決して良いものではありませんでした。




地下650mの水平坑道は広さに余裕があり、しっかりした岩盤中に作られていました。 この坑道を人車とともに、機材、資材、石炭などを搬送する車両が行き来していました。




人車を降りるとそれぞれの作業現場へと向かいます。




現場が遠い時は、人員搬送専用のベルトコンベア(マンベルト)を使用しました。 更に遠い時は、二つ目のマンベルトに乗り換えて移動することもありました。




払いに近い採炭現場は、石炭採掘後に大きな空洞が出来ます。この為、物凄い 地圧の影響をもろに受けて、鉄枠ごと坑道が潰れていく現象が見られました。




採炭切り羽とも呼ばれる払い内は、鉄の爪が付いた重機で石炭の採掘を行います。 採炭現場の実際の仕事は、ユニット化された天井支保装置(自走枠)を操作したり、 払いの進行を補助する付随的な作業が多くを占めていました。但し、断層個所に 当たった時は、天井が大きく抜け落ちたり湧き水が増えることも多かったので、 人員を増員。作業内容が変わることもありました。




左の写真は払い。自走枠が思いっきり前進しているので、空間が狭く感じられる 状態になっています。石炭の壁に小型の三脚を押し当てて撮影しました。 足元にはチェーン式のコンベアーが埋まっており、石炭採掘時には載っている 石炭を強引に搬出する仕組みになっていました。右の写真は掘進の最前線で、 サイドダンプと呼ばれる軽快に動く重機や、ロードヘッダーと呼ばれる岩盤や 炭層の切削機能を持った大型の重機が使用されていました。




天井に支えが無い場合は、岩石や石炭の塊が落ちて事故を生み易いので、 鉄枠で天井を支える作業を終えてから残りの作業を行いました。 炭層の状態が悪いときは壁の石炭が大きく返る場合があり危険なので、 炭壁面を押さえる作業を行っています。作業一サイクル当たりの進行距離を 稼ぐため、天井を支える枠を 2本いれています。坑道を長持ちさせたい場合 には、鉄枠の間隔を狭くする場合もありました。




払いの進行をスムーズに行うには、鉄枠の一部が障害になりました。 この為、進行の妨げになる部材を外す作業を行っています。枠の一部を外しても 作業空間の安全を一時的に確保する必要があるので、伸縮式の鉄柱で鉄枠の中程を 支えています。払いが充分に進行すると鉄枠を支える必要はなくなるので、 鉄柱は回収。鉄枠は変形している場合が多いので、そのまま廃棄されました。




払い内は約100メートルの長さがあって、石炭層が剥き出しになっていました。 回転する鉄の爪を供えたドラムカッターと呼ばれる大型の切削機は、無数の鉄柱が 立ち並ぶ狭い空間を行き来し、黒ダイヤの壁を削り落としていました。




払い内には、約100ユニットの自走枠がほぼ一直線に整列。チェーン式の コンベアと一体になっていました。石炭層の切削後は、ユニットを順次前進させ ますが、ユニットとユニットとの間に僅かな隙間が出来るので、場合によっては 隙間からの落下物で怪我をすることがありました。この為、この隙間を埋める 作業を行っています。写真中央部が鮮明でないのは、石炭採掘に伴って発生した 粉塵の影響によるものです。




地底には専用の食堂はありません。食事をするときは、作業現場に近い坑道内の 適当な場所に腰をおろし、暗闇の中で食事をしていました。私は、高島炭鉱で 働いていた当時、同じ様な状況下で食事した経験があったので、何としても撮り たい映像の一つでした。




払い周辺は、いろいろな機材や配管が走っていて、ガラクタ倉庫の様相を 呈していました。払いが進行するときは、埋もれた状態のパンツァーコンベアーが そのまま移動。払いから排出された石炭を受け取るコンベアーにはクラッシャーと 呼ばれる巨大な破砕機が連結されていて、ベルトコンベアーで搬送困難なサイズの ものを小さく砕いていました。クラッシャーは、半ば埋もれた状態のことが多いの ですが、払いの進行に伴って丸ごと移動する姿は、何回見ても迫力の光景でした。




坑道には入気坑道と排気坑道があり、主に、石炭やボタの搬出、機材や資材を 搬送する坑道としても使用されていました。所によっては明るい所も一部にあり ましたが、基本的には街灯様のものは存在しませんでした。この為、 キャップランプの灯りが切れると周囲は完全な闇になり、身動き出来なく なりました。




仕事を追えて、地上へ戻った時の様子です。




地上に戻ると慌しく風呂へ駆け込むものが多かったのですが、 のんびりと一服する光景も良く見られました。進発所や更衣室 ではいろいろな映像が撮れる筈でしたが、閉山が決まるまでは 堂々と撮ることが出来ませんでした。




顔が異様なまでに汚れていますが、掘進や採炭の現場で作業する場合に この様な姿になりがちでした。地肌が幾分見えているのは、現場の温度や 湿度など作業環境が良好な為で、猛烈に汗をかく現場の多かった高島炭鉱 の場合には、炭塵が降り積もって地肌が完全に隠れてしまうことも珍しく ありませんでした。




閉山の日に撮影していますが、仕事を終えた後は何時もと変わらない光景 が見られました。




炭鉱は地底の最前線だけでなく、郊外で働く職種の人も多くいました。 写真は、貯炭場の中での作業を捉えたものです。真夏の暑い日だったのですが、 炎天下の中でも真面目に体を動かす姿がありました。




地底に通じる坑道は垂直に掘られた立て坑(竪坑)だけではなく、斜坑も存在しました。 斜坑は石炭を地上に上げる為や、資材、機材を搬送する目的でも使用されていました。




採掘された石炭は、最終的には船積みされて島を出て行きました。




貯炭場の石炭が多い時の姿を撮っていますが、一時は、離れた別の土地に 貯炭の山を築いたこともありました。島には自前の石炭火力発電所があり、 保安用電力の発電とともに海水を蒸留。水道水も造っていました。




滅多に見ることも無い光景も撮っていました。




初めて池島へ行った時、池島の池は何処にあるのか島中を探して見ましたが、 それらしい大きな池は見つけることが出来ませんでした。島の人に尋ねると、 この湾が、昔は「鏡が池」と呼ばれた池の跡だと教えてくれました。 海と繋がって湾に変わっていたのでは、分かる筈もありませんでした。




広角レンズで撮っているので小さく感じますが、島の西部にある貯炭場は かなり大きなものでした。一時期、貯炭の山が幾つか存在したこともあり ましたが、搬送コストの問題なのか、本来の貯炭場から離れたこの場所ま で運んで野積みすると言う光景は見られなくなりました。




炭鉱町らしく、石炭やスコップを飾りの様に見せている所がありました。 炭鉱は24時間フル稼働、3交代勤務なので日中に睡眠をとる坑夫も多く いました。日中の安眠を妨害をされないための掲示板も所によっては 存在しましたが、如何にも炭鉱町らしさを感じさせる風景でした。




池島へ通い始めた1988年当時に撮影した写真です。




休日になると、島の外へ出かける船待ちの姿が多く見られました。




港からは遠い島南部の地区を撮影していますが、写真で見る状況も当時は 当り前に見られた光景でした。今は、この地区も静まり返り、人と出会う ことも殆どなくなっています。




歓迎遠足は、島を一周するのが決まりの様になっていました。 例年、春になるとこの様な光景が見られました。




池島ストアはこの島で一番の品数と規模を誇ったスーパーで、日常 必要な生活用品の殆どが揃っていました。閉山後は規模を大幅に縮小し、 営業時間も短くなりました。今は人の行き来も殆ど無く、閉山以前の 賑やかさを想像することも難しくなりました。




活気があった当時の池島ストア内を撮影していますが、町の大きな スーパーを彷彿させる状況が見られました。




若い坑夫と子供。夏場はプールが賑わいました。島を度々訪れていると、 写真を撮ってくれと声を掛けられることもありました。振り返って見ると、 背中に荷物を背負わせ、顔に頬かむりさせた愛犬と主婦がポーズを取って いました。滅多に見られない面白い光景だったので、すかさずシャッター を切りました。




夏、池島ストアの前で氷上我慢大会が行われていました。冷たい氷の上で 殆どの子供達がクリア。商品のスイカを嬉しそうに持ち帰っていました。




写真は、島の高台にある中央公園。学校が夏休みに入ると、 ラジオ体操が毎朝行われていました。




毎年、盆になると花火大会が行われました。花火大会は、閉山が決まった 年にも行われました。




池島は炭鉱町ですが、運動会の様子は他の町の運動会と変わりが無く、 炭鉱町にいることさえも忘れさせるものがありました。




毎年、11月3日は山神祭と決まっていました。幾つもの露天商が店を並べ、 賑わいを見せました。主婦と子供にレンズを向けていると、ほろ酔い加減の 坑夫が石炭を抱え、写真の中に映り込もうと動き回りました。画面から外 そうとレンズの向きを変えても正面に回りこむ有様だったので、根負けした 僕はそのままシャッターを切らざるを得なくなりました。




山神祭の日、島内を練り歩く隊列は見応え充分でした。島の高台にある神社を 出発して島中を練り歩き、港口まで下りて休憩。その後、元来た道を上がるのが 何時ものパターンでした。閉山が決まった年にも山神祭は行われましたが、 肝心の島内練り歩きは雨で中止になってしまいました。




本神輿を担いで練り歩く大人のグループ。




山神祭の日、島の全地区の子供達が参加して盛大に行われました。 時には景気付けに勢いよく走り出すこともありました。




港地区では、年末になると餅つきを行うことが恒例の行事になっていました。 朝、暗い内から準備が進められ、多くの大人子供達で賑わいました。




幾度となく目にして来た光景ですが、もう二度と見ることはなく、 今となっては懐かしい記憶の一ページに変わってしまいました。




今となっては懐かしい情景です。臨場感が感じられる様に広角レンズを使用し、 思い切り寄ってシャッターを切りました。




ヤマの記録を撮る中で、家庭の様子を記録に残す必要を感じていました。 港地区にある坑夫宅へお邪魔し、その日常の一部を撮影させて戴きました。 坑内で筋力を使う仕事をされているとの事で、その腕の太さが印象に残りました。




港地区の一般住居で撮影。




何処の町でも見られるありふれた光景の一つですが、左の写真は港地区 ショッピングセンター内で撮影。パチンコ店は池島には2件あり、 給料日の後には結構賑わっていました。




どうやってこの大きな塊を持ち帰ったのか、自宅に飾る石炭の塊を形良く整える 姿が見られました。池島ストアに向かい合った市場にはいろいろな店舗が入って いました。その日常の一コマを切り取りました。




島の子供達の様子を見るのは、楽しいものがありました。




元は海だった場所もボタで埋め尽くされ、子供達が駆け回る遊び場になっていました。 黒く見えるのは選炭漏れした石炭で、中には燃料として使えるものもありました。 坑内で使用された木材も、廃材として浜に打ち上げられていました。




道路に毛布を広げたり、裸足で駆け回る姿も良く見られましたが、島の日常風景の 一部で、当時は当り前に見られた光景でした。




港地区の公園は、休日や午後には子供達で賑わいました。閉山後は雑草が生い茂る 場所に変わり、遊具も撤去され、子供達の歓声も響くことは無くなってしまいました。




夕暮れ時が近づくと、子供達の姿も増え、風呂へ行き交う人の動きなどもあって 島の息吹や情感が感じられる状態になりました。




島の高台にある中央公園傍には公衆浴場があり、この様な光景が良く見られました。




中央公園の傍には公衆浴場がありました。炭鉱従業員家族の為の浴場で、 当然のことながら入浴料金は無料になっていました。




港地区では、毎年7月6日の夕方に七夕の飾り付けが行われました。




夕暮れ時は、島の人々の様子や息吹が伺えるゴールデンタイムになっていました。 観察していると微笑ましい状況に気付くこともあり、見逃さない様に心がけていました。




休日の夕方には、町に出かけていた人が一斉に帰島する様子が見られました。




島の高台から見た港地区の姿ですが、閉山前は住宅街も炭鉱の施設も光 で輝いていました。




池島ストアに飾られた七夕の短冊には、池島が閉山しないようにと願いが込め られたものがありました。しかし、2001年11月に池島炭鉱の閉山が決定。 石炭景気に湧いた島も、最後の瞬間に向かって動き始めることになりました。




島の高台の給水タンクの上から撮影していますが、この一帯には炭鉱従業員家族 の為の社宅が建ち並び、隣接した鉱業所内の敷地も夜は光で輝いていました。 閉山後は手前の敷地の照明が完全に消え、アパート群の輝きも寂しいものになりました。




左の写真は進発所と、それに通じる階段通路。右の写真はこの階段通路へ向かい、 通勤する姿です。濃霧の中に吸い込まれる様に消え行く状況は、真っ暗な地底へ 下る様子と重なり、印象深いものがありました。




島が厚い雲に覆われ、その雲間から光が差すと、とても印象的な風景になること がありました。まるで、池島炭鉱の閉山が近いことを暗示している様にも見え たものです。




池島最後の花火大会は、雨の中で決行されました。この年に限って雨は山神祭の 日にも降り、島内練り歩きは中止になりました。また、池島炭鉱が閉山を迎えた 日には、土砂降りの雨が降りました。池島炭鉱最後の年の行事とも言えるものが 全て雨に祟られたことが、ヤマの最後を印象付ける出来事として記憶に残ること になりました。




池島炭鉱の閉山日が決まると、取材陣が殺到しました。私は閉山の2日前に地底へ入る ことを止め、迎える閉山を記録する作業に入りました。




自分達が地底で働いた証しとして、記念写真を撮ってくれと依頼されることも ありました。お陰で、撮影はスムーズに進みました。




最後の繰り込み風景を撮影していますが、周囲に取材陣が居るので今日が特別な 日だと分かります。しかし、繰り込み風景そのものは、普段と変わるところは ありませんでした。




取材陣のカメラに挟まれ入坑。普段と異なる特殊な状況になっています。 最後の入坑風景が良く分かる位置を選んで撮影しました。




坑員が地底へ降りた後は、進発所は蛻の殻になり、静まり返りました。 繰り込み場の喧騒も、今は遠い過去のものになりました。




最後の仕事を終え、地上へ上がって来たその顔には、二度と地底で 仕事が出来ない寂しさが現れていました。




最後の仕事を終えて上がる姿は淡々とし、何時もと変わりない様子が 多く見られました。しかし、更衣室では愛用の七つ道具を捨てる光景 が繰り広げられていました。二度と使用することのない保安靴を捨て る様子を見て、寂しそうな表情を見せる坑夫の姿は、今も強烈な印象 として記憶に残っています。




最後の仕事を終えた坑夫の表情。




炭鉱では、粉塵が舞う中で作業を行う場合が多いので、 顔も体も真っ黒に汚れ、肺へ吸い込んだ粉塵で体調を壊すものも多くなりました。




直轄の従業員は、閉山手当てをしっかり受け取ることが出来ましたが、 下請けの場合は解雇予告通知書一枚で済まされる例がありました。




池島炭鉱が閉山しても、年内は人の動きが殆どありませんでした。 しかし、翌年3月になると、島を後にする様子が連日見られる様になりました。 船着場に近い海岸線には、家財道具を満載した車の列が出来ました。




家財道具を満載したトラックが次々とフェリーへ乗船。




島での別れを写真に収める光景も良く見られました。




一緒に働いた仲間や、付き合いのあった人を見送る様子が連日見られました




















池島炭鉱が閉山して半年経つと社宅はがら空きになり、生活の物音が消えて しまいました。玄関の扉には、島への思いを書き記したものが残されていました。




貯炭場の石炭は無くなり、船積みの為に石炭を搬送するベルトコンベアーは チェーンでロック。地底へ通じていた坑口は、コンクリートで密閉されてし まいました。




人が居なくなると、良く行き来した場所でさえもまるで別世界の印象に変わりました。




人通りが絶えず、常に何台かの車が停まっていた場所だったのですが、 予想していたこととは言え、あまりの変わり様に愕然とするものがありました。




閉山後の新学期、生徒数の余りの激減ぶりにショックを受け、中まで入って 撮影する気持ちにはなれませんでした。




閉山から約半年後、社宅の明かりの大部分が消えてしまいました。 ここまで来ると、島に残る方が辛い様に思えました。閉山後の 現実を実感させる象徴的な一コマです。




港地区を散歩していると、猫と一緒に遊んでいる少年の姿がありました。 とても良い雰囲気が感じられたので、思わずスナップしました。




ほのぼのとする状況に出会うと、シャッターを切らずにはいられませんでした。




子供達の自然な姿を見るのは、とても楽しいものがありました。




親子間の心温まる光景も見逃さない様に心掛けました。














IKESIMA 00 GUNKANJIMA 00 TAKASIMA