池島は、高島や軍艦島と同様、海底から石炭を産出する炭鉱の島でした。 全盛期には約7000人を超える人々で賑わいましたが、2001年に閉山。 島は寂れてしまいました。取り巻く情勢から日本の石炭産業に未来はなく、炭鉱町を撮る 最後の機会とも感じていた私は、この池島へ通いながら最後には池島炭鉱で現役の 掘進作業員として働きながら活気ある時代の記録を撮り続けました。


池島への道程

池島へ渡るには神浦港と大瀬戸港からの2つのルートがあります。 高島からは神浦港が近い位置にあるため、最初のころは神浦港出発便を利用していました。 しかし船の便数は大瀬戸港が4倍も多く、その利便性のため大瀬戸港出発便もよく利用しました。 高島から長崎までは旅客船で1時間かかりました。 神浦港までバイク(50cc)で1時間弱。 大瀬戸港までだと更に20分かかります。 池島までフェリーで30分かかりますので、待ち時間を加えると、 高島−池島間の往復に6−7時間はかかりました。 それでも、池島の炭鉱マンになるまでに100回以上通って撮影しました。

池島へ上陸して

神浦港からフェリーで出航、池島へ近づくと湾に沿って立ち並ぶ炭鉱住宅(町営住宅)や 貯炭場に積み上げられた石炭、選炭施設等がはっきりと見えてきます。 石炭の島へ来たという実感が沸いてきました。 島の高台へ登ると更に多くの住宅群が立ち並んでいました。 当時の池島の住宅群は外装の塗料が殆ど剥げ落ちていて古びた感じがあり、 高島の炭鉱住宅群を目の当たりにしているような懐かしさがありました。 池島に来て気付いたことは、港地区では貯炭場の石炭、選炭施設、トロッコ等、 炭鉱と分かる風景が自然と目に入り、炭鉱町の風情を感じましたが、 島の高台にある鉱業所地区では住宅街へ入ってしまうと、炭鉱の施設は殆ど目に触れず、 まるで別の町に来ているような印象を受けました。 島内を巡りながら撮影していると、鉱業所地区から道路を隔てた位置に「第1立て坑」(排気立て坑)と呼ばれるやぐら が立っていました。 その第1立て坑に隣接して池島炭鉱の事務所があり、進発所での撮影許可の申し入れをしました。

進発所での撮影

撮影許可が下り、進発所での撮影が始まりました。 進発所で坑内作業員の姿を撮影できるのは入坑前の繰り込みの時と、坑内作業を終えて上がって来た時だけでした。 主に2番方の撮影を行いましたが、1日かけて全ての番方の撮影を行ったことも数回あります。 初めはカラーで撮影していましたが、思ったように良い写真が撮れず苦労しました。 特に自然光線だけで撮ることは難しく、ストロボはバウンス使用を心がけ、自然さが失われないように工夫しました。 それでも味のある写真をなかなか撮りきれず、時間だけが過ぎていきました。 カラー撮影の場合には色かぶりの問題もありましたが、モノクロプリントのように「焼きこみ」や「蔽い焼き」 といった手法が使えないため、撮影結果を考えた場合にあきらめる状況が沢山ありました。 その結果、1年後にはカラーと平行してモノクロ撮影も行う様になり、 3年目からはモノクロ撮影が主になって行きました。進発所ではさらに気合を入れて撮影を続けましたが、 その一生懸命さが裏目となり、ある時期から進発所での撮影は一切出来なくなりました。 しかし、そのときの苦労と経験は閉山の日に生かされました。

坑内撮影

池島の撮影を始めておよそ3年後、いきなり坑内撮影のチャンスが訪れました。 以前より機会があればとは考えていましたが、ともかくチャンスを生かすことにしました。 高島炭鉱で働いた経験から坑内にどのような状況が存在し、どんな映像が撮影可能かおよそ見当は付いていました。 1991年2月11日、指定された時間に進発所へ行き、久々に炭鉱マンの姿になりました。 出発時間になると、第2立て坑から地底650mへ降り、係員人車に乗車しました。 途中、人員移送専用のベルトコンベアー(マンベルト)に乗り換え移動。 終点からは自分の足で現場へ向かいました。 駆け足での撮影になることは分かっていましたので、 撮影で失敗しないようにフイルムの装填、設定の確認だけはしっかり行いました。 私が希望した、採炭、掘進、仕繰の各現場は全て案内してもらえることになり、 ポイントポイントを見落とさないようにすることと、 これはというものを撮り損なうことがないように最大限の注意を払い、撮影に臨みました。 入気坑道をしばらく歩き、風門を通って排気坑道へ出ました。 排気坑道は特有の熱気と匂いがあり、その熱気と匂いに包まれたときとても懐かしい感じになりました。 そこから少し行くと、坑道の暗闇の中で食事する炭鉱マンの姿が目に入りました。 その光景は以前から撮りたいと思い続けていた光景だったので、 喜びと高鳴る興奮を抑えつつ慎重に撮影しました。 この時は、撮影用光源としてキャップランプを使用したので手振れが心配でしたが、 暗闇の中に浮かぶ炭鉱マンの姿が印象に残る、雰囲気ある写真にすることが出来ました。 その後採炭現場ではドラムカッターの運転中の状況、自走枠組立て風景、払い内作業などを撮影。 掘進現場では炭壁面固め作業と石炭の積み込み作業を、仕繰現場では坑道拡大作業を撮影しました。 坑内撮影を行った時期は奇しくも軍艦島(端島)撮影時期と重なっています。

再び炭鉱マンになって

池島の撮影を開始後6年間に池島炭鉱の坑内と、池島自体の撮影をほぼ終了し、軍艦島写真集 「崩れゆく記憶」の出版も済ませたことで一つの区切りができました。 その後、地底から炭鉱というものをしっかり見詰め直そうとの思いが湧き上がり、 再び炭鉱マンになることを決意しました。 長年池島に通っていたことから面接担当者にも知られる存在となり、年齢制限一杯ではありましたが、 翌年6月1日から再び炭鉱マンとして働くことが決定しました。 高島炭鉱で掘進作業の経験があったので、職種は掘進に決まりましたが、 現場配属されて驚いたのは掘進速度の速さとその作業量の多さでした。 高島炭鉱の場合は一方当たり一つの坑道を4人で1m掘り進むのが精一杯でしたが、池島では6人で作業するものの 高島炭鉱の場合よりも2倍は大きな坑道を5mも掘り進んでいました。 鉄製のアーチ枠、そしてアーチ枠周囲に巻き込んで行く木材等を大量に使いますが、 幾日もしないうちに筋肉痛、ひじ関節痛に襲われるようになり、 作業のきつさも加わって、何度か退職を考えたときもありました。 それにしても炭鉱マンは強烈な個性の持ち主が多く、 仕事をしていて辛いときもありました。 中にはわざわざ炭鉱で働かなくても、 外の世界で十分生きて行けると思われるほどの優れた能力を持った炭鉱マンも数知れずいました。 また、炭鉱マンの中には身分証明が出来ない特殊事情を抱えて池島へ流れ着いた人もいました。 池島炭鉱では約7年間働きましたが、比較的楽な仕事のときもあれば、逃げ出したいときもありました。 同じ人数で8m−9m掘り進む作業が1ヶ月続いたときの辛さだけは今でも忘れることが出来ません。 また、掘進時に断層に当たると天井が大きく抜け落ちることが多く、 その補修作業は大きな危険が伴いました。 このような危険な作業は先山や副先など技術レベルが高く、 経験豊富な人が先頭に立って行いましたが、命が幾つあっても足りないと思う程、 見ただけでその作業の恐ろしさを感じたことは一度や二度ではありませんでした。 坑道への大量出水もありました。 排水が間に合わず、胸まで水に浸かって、排水作業の応援をしたこともあります。 また、坑内火災にも遭遇しました。幸い炎や煙に巻き込まれることはありませんでしたが、 坑内火災発生時は坑道の最も奥部にいたので、延焼速度や煙の拡散状況次第では 今こうして文章を書いている自分は居なかったかも知れません。

坑内火災以降

坑内火災以降、池島炭鉱の経営状況は悪化し、 池島炭鉱の存続にも暗い影を落とすことになりました。 そのしわ寄せは社員の賃金を25%カットするという形で現れ、 炭鉱マンの生活に大きな影響を与えました。 当時の池島炭鉱は、石炭政策の終了後も石炭を掘りつづけると明言していました。 地底で働く仲間からは、池島炭鉱が存続してくれるのは有難いが、 国の政策が終了したら、池島炭鉱単独では経営を継続できるはずがなく、、 継続したとしても貰う賃金は今よりも減り、 その後に池島炭鉱が潰れた場合は、退職金や閉山交付金も貰えないまま 裸同然で池島から放り出されかねないと、早期閉山を歓迎するとも受け取れる声も上がっていました。 どちらかと言うと閉山後の再就職の心配よりも、 退職金や閉山交付金のことを心配していた節が見られました。 閉山の半年前になると池島炭鉱に関する記事が新聞紙面に多く掲載されるようになり、 池島炭鉱の先行きがどうなるのかを心配する様子がいろいろな所で見られるようになりました。 近づく閉山を予感しての行動なのか、家族を池島から早めに引き上げさせ、 父親が単身赴任の形で池島に残るところも増えていきました。

石炭産業終焉の日を迎え

出水、坑内火災、採掘条件の悪化、そして対外的な池島炭鉱を取り巻く情勢の厳しさ、 報道される記事の内容から、閉山に対する不安は現実味を持ち始めていました。 そして閉山は現実となり、炭鉱マンの生活を一変させました。 閉山が決まるとテレビや新聞などのメディア各社が大挙して池島へ来るようになりました。 坑内では掘進作業を全て停止、掘進作業員は採炭現場の応援をすることが多くなりました。 また、坑内から地上に戻る前には記念の石炭を拾う様子も度々見られました。 私自身は、閉山の2日前に池島の炭鉱マンとしての仕事を終え、迎える閉山を記録する作業に入りました。 早速、池島炭鉱の事務所で撮影許可を貰い、進発所へ行きました。 進発所では、仲間の炭鉱マンの姿や表情、繰り込み風景、最後の入昇坑、最後の仕事を終えた炭鉱マンの表情、 ヘルメットや保安靴を捨てるときの様子、それを見つめる仲間の炭鉱マンの表情などを撮影しました。 全体として淡々とした印象はありましたが、寂しげな表情も垣間見えることがありました。 池島炭鉱閉山から2ヶ月後、国内に唯一残っていた太平洋炭鉱も池島炭鉱の後を追うように閉山。 日本の戦後復興を支えたヤマの灯が完全に消えてしまいました。

閉山後の様子

池島炭鉱が閉山すると失業した元炭鉱マンは失業認定手続きを行いましたが、 この不景気の時代に希望する収入を得られる職業はほとんどなく、年齢制限、 免許や経験の有無などの問題もあって再就職は遅々として進みませんでした。 殆どの人たちは再就職が決まらないまま転居先を決め、その転居先から職業 訓練や求職活動を開始しました。また、3月になるまで、引越や港での別れ の光景は殆ど見られませんでした。

その後の池島

島の人口が激減して以来、商店は相次いで店を閉じ、 池島最大の商店、「池島ストア」も売り場を縮小。 店の前に駐車する車の数も行き交う人の数も極端に減少、 住宅街に入っても生活の物音がせず、静まり返っています。 小学校の在籍児童数は閉山1年後に27名、2年後には17名になっています。 発電所は運転を停止し、貯炭場の石炭は無くなっています。 ただ、閉山後に始められた炭鉱技術海外移転事業は、 大きな炭鉱事故が相次ぐ中国などから事業継続を望む声が強く、 2007年以後も継続される見通しになっています。


池島の概略

長崎県西彼杵郡外海町神浦池島。神浦港から約6km西方海上にあり、 東西1.5km、南北1km、周囲4kmの島。 その小さな島の中に池島の言われとなった鏡ヶ池があったが、開鉱に伴って一部が開口され、 5000屯級の船が入港接岸可能な港湾に姿を変えている。 この池島港には石炭運搬船、資材運搬船、旅客船等が出入りし、 その便数は旅客船だけでも一日30便を超えていたころもあった。 石炭は池島の沖合い約10km、深さ約600mの海底下より掘り出され、 操業開始から閉山までの42年間に4400万トンを出炭した。 最盛期には7700人もの人々が生活していた時代があったが、2001年11月29日に閉山し、 閉山から2年後の現在は島の人口は600人を切るまでに減少している。 池島行きの連絡船は神浦港と大瀬戸港から出ており、所要時間は約30分。

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