この島には、過去の繁栄を証明する無人の廃屋群が今も存在している。
島は風化が進み、生活道路だった場所には頭上から降って来たと思わ
れる瓦礫や木材が無数散乱している・・。通常は見ることが出来ない島
の内部を、独自の視点で切り取り紹介する、軍艦島シリーズ作品第1段。
軍艦島は長崎港の沖合に浮かぶ小さな炭鉱の島。現在この島は無人島だが、 かつて島には端島炭鉱があり最盛期に約5千人の人々が暮らしていたと言う。 軍艦島という名は、島の姿が軍艦にも見えることからついた名称だ。 島の正式名称は、長崎県長崎市高島町字端島。
最近、この島を世界遺産に登録しようとする動きがあり、多くのメディアが島を 紹介した。その影響で春から秋まで、軍艦島を周遊する観光船の姿が頻繁に見ら れるようになった。軍艦島は長崎港から約18キロメートルの沖合いにあり、高速 艇に乗ると約30分でその姿が確認できる。
島は特異な姿をしており、遠方から見ても簡単に見分けることができる。端島炭 鉱の姉妹鉱があった「高島」を通過すると軍艦島は、よりくっきりと見えるよう になる。広い海原に密集して建つアパート群は、まるで海中から伸びているよう にも見える。 軍艦島は見る方向で全く異なる姿を見せる。対岸の長崎市野母半 島から島を見ると、岩礁部分が目立つがらんとした姿、五島灘からは、コンクリ ートアパートがびっしりと建ち並んだ姿。さらに方角を変えると船の姿になり、 護岸に白波が立つと軍艦が波を切って海上を突き進んでいるような勇壮な姿に見 える。
島の通称、「めがね」と呼ばれるところへ船で近づき、島を見上げると護岸の迫 力に圧倒される。高くてぶ厚い護岸で囲まれた軍艦島は、まるで脱出不可能な要 塞をほうふつさせる。上陸すると島は見渡す限り瓦礫が散乱していた。軍艦島の 低地には、まともな道は存在しない。瓦礫や木材が散乱しているところが生活道 路だったのだ。島を見て回るには、足元と頭上に注意しながら歩かねばならない。
軍艦島は元、何もない小さな水成岩の岩礁だった。海底下に眠る燃える黒い石 「石炭」を掘り出すため、周囲を埋め立て護岸で囲み、一周わずか1.2キロメート ルの島に高層住宅がひしめく鉱山都市になった。島を都市と形容するのは大げさ とも思えるが、軍艦島は小さな島でありながらも当時、かつて人口密度が東京の 約10倍といわれた時代があり、世界一の人口密度を誇る「超過密居住の島」とし ても有名だった。 島は離島ながら電気、ガス、水道、役場、郵便局、学校、病 院、商店や食堂、パチンコ店、映画館などの娯楽施設も充実していた。また、テレビ や洗濯機を始めとした家電品はいち早く普及し、人々の生活水準は高かった。 しかし、時化たときは海上輸送が止まるため、店の食料品も底をつき、深刻な状 況になったと言われている。
日本において鉄筋コンクリート高層建築の始まりは、この島に現存する30号棟が 最初である。当時、東京でさえ木造建築が主体であり、煉瓦造りの建物がわずか に存在する程度だった。 その様な時代に軍艦島は、大型の65号棟や日給住宅を始めとしてコンクリートア パート群が島の半分を埋め尽くすまで建築された。
この島の人口密度が最も高い時期、僕はこの島を数回訪れたことがある。小学校 の5−6年生の時だった。 軍艦島には日本で最初に建造された蒸気機関の鋼鉄船 で渡った。当時、軍艦島までの船賃は、高島から子供片道1円、大人2円だった。 島には桟橋がなかったので、「はしけ」と呼ばれる小船に乗り移り、はしごをよ じ登って上陸した記憶がある。
上陸すると、目の前に炭鉱の施設と住宅街へ通じるトンネルがあった。島の北側 に位置する学校の方へ進み、65号棟を上がった。7階まで上がるとそこには橋が あり、先端は3方向に分かれていた。 橋を渡ると、島の中腹部に建つアパート の1階部分に到着。通路の角を曲がると9階建ての日給住宅が見え、島の高台へ至 る道も自然とわかるようになる。少し歩くと山道に到達。ここまで来ると、島の 中心へ来たのも同然で、神社まで上ると島の様子がほぼわかるようになる。 神社 から東側を見下ろすと端島炭鉱の事業所を一望することができた。そこはまさに大 工場だった。地上に積み上げられた石炭の山や竪坑やぐら、ベルトコンベヤーや機 械設備、施設がぎっしりと詰まっていて壮観な風景だった。 さらに西側を見ると、 コンクリートアパート群を一望することができた。ここからは狭い土地に無理やり 詰め込まれたアパートの様子がよくわかった。
軍艦島は特異な島で驚きの風景が一杯だった。「緑なき島」と聞いていたが、実際 には緑が多くあった。屋上には畑が広がり、花も咲いていた。たくさん干された洗 濯物や、無数のテレビアンテナは今も強烈な印象として残っている。
ここに建つアパート群は当時としては非常に斬新で、欧米のアパートと較べても見 劣りがしないと言われるものもあった。観察すると一つ一つ造りに特徴があり、自 由な発想で試行錯誤を繰り返し、思い付いたアイデアを次々に盛り込んで建築した 様子が伺える。島に現存する最も古いコンクリートアパートは、建築されて約90年 になりその痛み方は凄まじいものがある。床や天井が抜け落ちた所が随所にあり、 7階から3階まで抜け落ちた住空間を見たとき、このアパートが抱える潜在的な危険 性を見せ付けられているようで背筋が凍った。島の内部を見てまわると、大量の海 水が島の中に流れ込んだとしか思えないような状況も見られた。これらは、台風が 来たときの様子を知る手がかりになった。
島の撮影を始めたのは平成3年の11月で、台風19号が来た年だった。約30年ぶりに島 を訪れると、護岸が何ヶ所も壊れており、特に学校付近は被害が大きかった。内陸 部の土地は流失し、校舎を支える基礎は剥き出しになっていた。まさに校舎は倒壊 寸前の状態だった。護岸の一部が壊れただけでこの状態だ、島を取り囲む護岸が全 て壊れたらどうなるのだろう。恐らく土地がなくなり、アパート群は海中へ消え、 軍艦島は伝説の島になってしまうだろう。私は島の危機を感じ、軍艦島の今の姿を 記録に残すことを決意した。
軍艦島は無人島になった瞬間から時間が止まったと言われる。確かに当時の様子が そのままに残っているのだから正しい表現だろう。しかし、島の風化は進行しており、 徐々にではあるが当時の様子が伺える状況や風景は確実に失われつつある。 島の 風化は速い。生活の匂いを感じさせるものは顕著だ。木造建築は原型を失い、木製の 転落防止柵も無いところが目立つようになった。コンクリートの建造物は、木製の 建築物より風化の進行は遅いが、条件が異なるのか建築物によって風化速度に差異が 見られる。中には、風化の進行が著しいものもあり、もはや風化を阻止することは できないように思われる。遅かれ早かれ木造建築物と同じ運命をたどることになる だろう。
軍艦島はそこで生活する人間がいないという点では無人島とも言えるが、好天の休日 には護岸の上から竿を延ばす釣り人の姿がよく見られる。また、春先には無数の遊漁 船が島の周囲に集まる。この島は、日本の戦後復興の一役を担い発展し、エネルギー 主役の交代で棄てられたが、昭和の時代の博物館とも言われ、歴史的、文化的価値を 高く評価されている。また、最近では世界に類例のないこの島を積極的に世界遺産に しようと取り組む団体も出現している。クルーズ船も出され、島を間近に見ることも 容易になった。しかし、軍艦島は上陸して初めて価値が分るものである。実際に上陸 するのと島の周囲を回るだけの海上クルーズとでは感動の大きさはまるで比較になら ないことを実感している。軍艦島を上陸可能にするための検討も行われているが、島 の傷み方が激しく、安全確保がネックになっている。
軍艦島は今後どのような命運をたどるのか、観光で命を吹き返すのか、上陸出来ない 島として観光客にも見放されるのか。人の思いとは別に人為的に手を加えられていな い島の内部は風化が着実に進行している。無人島として長崎港の沖合いに今も静かに 浮かぶ軍艦島。魅力的な島だが、風化を止める方策を講じなければいずれ元の岩礁の 島に戻るだろう。軍艦島は一般的な巨石文明とは異なり、その姿を長期間保つことは できないだろう。しかし、護岸が存在する限り、島の姿が一気に変わることもないで あろう。日本から石炭産業は全てなくなったが、石炭を産出した証は軍艦島の地下深 くに封印されたまま永遠に残ることだろう。
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