以前は石炭運搬専用の船が停泊し、海上へと延びた積み込み施設から石炭の
船積みが行われていました。今は海上に残る支柱だけが当時の面影を
見せています。

65号棟一階から撮影していますが、正面に広がる緑の土地はテニスコートの跡で、
その先に見えているのは教員宿舎として使用された千鳥荘です。
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65号棟の二階のベランダから撮影していますが、眼下に広がっていた筈の生活道路
は木々で埋め尽くされ、通り難い場所に変わっていました。
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この島で一番大きな公園を撮影していますが、奥まった付近ほど植物の成長が際立って
いました。地下には美容室兼理髪店跡が在ったのですが、茂った植物に進路を遮られ、
辿り着くまでが大変でした。
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正面の建物は新65号棟で、10階建てになっていました。同じ65号棟でありながら
建てられた時期が若干遅かった分、各戸にトイレを完備。玄関も鉄製のスライド式
になっているなど、僅かに現代風な造りになっていました。
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65号棟と一体に造られた煙突は建物よりも高く聳えていて、煙をもうもうと
吐き出していた時期がありました。何時短くなったものかは不明ですが、今も
先端部分の風化は進んでいるので、時の経過と共に更に短くなると思われます。
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島の立体交差とも言える場所を撮影していますが、65号棟は2階と4階と7階から
外に出られる様になっていて、空中廊下や階段を使用して好きな方向への移動
が出来ました。
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空中廊下と東中腹道路とを結ぶこの階段通路は傷みがひどく、何時崩落しても
おかしくない状態でした。
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65号棟と一体の煙突は根元が太くなっていたのですが、直下まで来て見ると
その巨大さが実感出来ました。
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煙突先端の様子を撮っていますが、場所が場所だけにこれ以上近づいて撮る
ことは出来ませんでした。
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教員宿舎最上階の出入り口付近は、植物で覆われ始めていました。
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8号棟から撮影していますが、正面に見える残骸は炭鉱長の住居だった建物で、
3号棟へと続く山道も木材と植物で覆われていました。
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神社から撮影していますが、直下は地獄段を上がり切った付近で、
山道の始点にもなっていました。近くに臼があったことから、
餅突きを行う場所にもなっていたと思われます。
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人々が生活していた当時、56号棟の屋上にはコンクリート製の囲いがありました。
その囲いが何時崩落したのか、あるいは撤去されたのか分かりませんが、
その後は木製の柵が設置された様で、その痕跡が面影を止めていました。
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島の元住民であれば、この僅かな痕跡からもアパートの名称や当時の状況が
思い出されると思います。同じ石炭の島でありながら、対岸に浮かぶ高島に
は石炭で繁栄した当時を偲べるものは無くなっているので、今では軍艦島を
故郷同然に感じる様になりました。
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日給住宅16号棟3階の連絡通路から撮影しています。
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日給住宅と51号棟間は、各階が連絡通路で結ばれていました。
幅は狭いのですが、移動の為に地上まで降りる必要がなく、
利便性の高さを実感しました。
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18号棟だったと思うのですが、日さし部分が如何にも手作りな感じがして
面白く、思わず撮影してしまいました。
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連絡通路からは、向かい合うアパート同士の間隔や外付け通路、
階を移動する為の階段通路の様子が良く分かりました。
コンクリート打ちっ放しの外壁や木製窓枠の存在は、建築された時代を
想像させるものがありました。現場に佇みじっと見詰めていると、
時を超えてタイムスリップした様な不思議な感覚になりました。
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アパート入り口には防潮の造りが残っている所がありましたが、
中には人の背丈と並ぶ程の高さの所がありました。
一見、頑丈なコンクリートアパートに見えても、剥がれたモルタルの下に木製の造りを
確認出来ることがありました。
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8号棟から3号棟へと通じる山道を撮影していますが、家屋の残骸が散乱し、
茂った植物も障害となって通行し難い場所でした。
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潮降街と呼ばれる一帯を撮影していますが、海がひどく時化た時にはアパート
屋上の高さも超える潮が打ち上がり、大量の海水が降り注ぎました。
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潮降街の中心付近で撮影していますが、霧で霞んだ様な光景はなかなか撮れる
ものではありませんでした。
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校舎を撮影しているのですが、切り取り方次第で軍艦島の名にも負けない
圧倒的迫力の建築物に変わりました。
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荒れた地面と雑草だけが目立つこの場所は、学校のグラウンドです。
静寂に包まれ変貌した姿からは、当時の状況も感じ難くなっていました。
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貯炭場の橋脚を撮影していますが、操業当時はベルトコンベアーや放炭機が
載っていて、橋脚とその周囲は石炭の山になっていました。
乗船桟橋に通じる通路から撮影していますが、左側には30号棟に通じる
トンネルがありました。
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今は屋根も無く事務所の面影も感じられませんが、撮影を始めた当時は
机や椅子が並んでいて、事務所と分かる状況がありました。
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この階段は上がり切った所が検身所になっていて、以前はその先が第2立坑のケージ
乗り場へと通じていました。現在、この階段はフレームも無く強度的な問題が発生。
行き来も危険な階段になっています。
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第4立坑の巻き座の中から撮影していますが、動力装置などはすでに無く、
屋根は骨組みだけになっていました。
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第4立坑の巻き座の中から撮影していますが、モルタルの下にはレンガの姿が
見えていて面白く、外観的にも印象に残る建物でした。
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大きなレンガブロックが散乱していますが、旧第三立坑巻き座だった
建物の一部と思われます。
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原炭ポケット付近には小さいながらも四角い穴が存在しました。
気になって覗いて見ると、その広さや造りが立坑の特徴を表していました。
近くに旧第三立坑巻き座跡が在ったことや位置関係から、旧第三立坑跡
の可能性があるとの結論に至りました。
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採炭現場で多用する天井支持部材(カッペ)が、仕上げ工場付近にありました。
高島炭鉱や池島炭鉱で働いていた時代に使用したことがあったので、懐かしく
感じました。
30号棟の2階レベルで撮影していますが、狭い通りには木材や瓦礫が無数散乱。
ひび割れや崩落も目立つアパートの為、直下を通行しないことに決めていました。
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48号棟は、一見普通のアパートに見えますが、地下空間が存在。
無人島になる以前は、パチンコ店が入っていて賑わいを見せていました。
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神社の上がり口付近から撮影していますが、逆光の中に浮かぶシルエットは
どこか現実のものでは無い感じがしました。また、生活の物音が一切聞こえ
ない状況も、この軍艦島を別世界に感じさせる大きな要因になっています。
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浮選機室跡から撮影していますが、この浮選機室跡には使用目的が分かる
設備や機器類は一切残っていませんでした。
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今は傷みも酷いこの通路は、当時は誰でも通ることが出来る生活道路でした。
護岸に沿って造られていますが、貯炭場に面した側にはコンクリート壁が
存在しました。現在残っている壁は一部分だけですが、当時は貯炭場の
石炭が通路にこぼれるのを止める重要な役割を果たしていました。
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31号棟前を撮影していますが、過去には護岸が決壊した場所であり、
平成3年にも護岸に穴が開き、土地が抉られる被害を出しています。
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護岸の下部が海へ突き出た個所は、平成3年に決壊した護岸の修復跡です。
その厚みは突出しており、頑丈に修復されている様子が分かります。
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護岸の上には、安全柵があった当時の面影が残っていました。また、釣り人の
姿が良く見られる場所でもありました。
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大きな亀裂が存在するこの場所は、2004年の台風接近時に損傷が拡大。
その後修復工事が行われたことで、真新しいコンクリート色が目立つ
護岸になりました。
鉱業所に沿って走る東中腹道路は植物で埋まっており、今では通行そのものが
難しくなっています。
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密閉されたこの坑道は不要のボタを海へ捨てる目的で造られ、
以前は島の裏側に通じるコンベアーが通っていました。
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軍艦島の中には幾つもの坑道跡が存在しました。木々の中に隠れたものもあれば、
雑草の中に埋もれる様に一部だけ姿を見せているものなど様々で、注意深く観察
しないと存在そのものにも気付き難いものがありました。
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第2立坑のやぐらを構成していた支柱の一部は、今も残っていました。空を仰ぎ、
何も無い空間に当時の姿を想い描いて見たのですが、現実の姿として見る事の出来ない
空しさだけを感じました。
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台風接近時の軍艦島は想像を絶する状況が存在。分厚い護岸も簡単に破壊
される程でした。
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島の人口増加に対応し、住居の高層化が進んだ軍艦島ですが、屋上にも住居を
増築した時がありました。一時は住居の数が不足し、対岸の島から通勤する
ものも居たと言われています。
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何処の島でも見られる海面状況ですが、ひどく時化ると護岸の高さを
超える潮が簡単に上がりました。
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無数の住居が残る無人島「軍艦島」。夕日に映える姿は格別の味わいがあり、
静寂の中に聞こえる潮のざわめきは、島に人が溢れた当時の喧騒を
思い起こさせるものがありました。
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軍艦島からは、船の姿も良く見られたのですが、大部分は遊漁船でした。
好天の日には船の数も多く、特定のポイントで釣りをする様子が良く見られました。
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日没時には、ダイナミックな夕景が見られる場合がありました。しかし、
日没後に灯台以外の灯りが灯る事が無いのは寂しく、島の現実の姿を
実感しました。夜のとばりが覆い、島が闇に包まれると、石炭の時代に
輝いた軍艦島は静かな眠りに就きました。
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