スナップフォト 1




モノクロで見る



2003年5月撮影

島から約200m離れた所から撮影していますが、この辺は海の底が見える程浅く、 水中を覗くと、流されて沈んでいるテトラポットや護岸の欠片、大小様々な魚が泳い でいる様子も見ることが出来ました。島へ近づくと更に浅くなり、島を取り囲む護岸と 水中の岩礁部との接合部分を見ることも出来ました。





この島の玄関口とも言える場所ですが、ドルフイン桟橋が出来る以前は、 護岸から海上へと延びた短い橋が使用され、先端から降ろされた梯子を 伝って船への乗下船を行っていました。





奥に見えるのは校舎。広場は貯炭場の跡で、以前は石炭の黒山が存在していました。 地下にはトンネルが走っていて、地上に野積みされた石炭を専用のベルトコンベアーで 石炭運搬船まで搬送する仕組みがありました。今は緑が目立ちますが、何も 無い様に見えるその平地には、当時の石炭の小さな欠片が僅かながら残っていました。





一時期、護岸決壊でグラウンドの土地が抉られ、校舎は倒壊寸前になりました。 その後、護岸とグラウンドは修復されたのですが、校舎の基礎杭部分は実質的に埋め戻され ることは無く、今も剥き出しのまま残っています。校舎内部の傷みも進行しており、 最上階の教室は天井が崩落して惨憺たる状況になっていました。






ここはグラウンドの中なのですが、何故かコンクリート製の側溝や土管が存在。 中から植物も延びていて、まるでオブジェの印象がありました。





手前の建物は「ちどり荘」と呼ばれた教員用宿舎で、グラウンドの一角に建っていました。





北部護岸上から撮影していますが、左の建物は病院です。地面には病院建物の落下物 とは明らかに異なる瓦礫が散乱。壁には薄緑色の塗装跡が確認できますが、時の経過 と共に、往時の状況を想像する僅かな痕跡と化しつつありました。





67号棟を撮影していますが、各階へ移動するための外階段がとても面白い形をしていて、 この島の中でも目を引く存在でした。この建物は、海に面した側の傷みが進行しており、 天井のコンクリートが剥げ落ち、二階床の木部が露出した個所がありました。





65号棟前の公園跡を撮影していますが、今は植物が鬱蒼と茂った場所が存在。 一部はアパートを覆い尽くそうとしている様にも見えました。 静まり返った空間と変貌した姿は何時見ても衝撃的な風景でした。





東中腹道路の一端には、空中廊下との間に掛け渡されたコンクリート製の階段 が存在しますが、風化の進行が凄まじく、もはや崩落寸前の状態でした。

65号棟の7階から延びる空中廊下は56号棟と50段とを結んでいました。





校舎屋上から撮影していますが、島の東半分が写っています。閉山後多くの施設が解体撤去 されたので、住宅街と比較すると当時の面影を留めているものは僅かしか残っていま せんでした。海に囲まれたこの島は、鉱業所側に面した側が比較的に穏やかな場合が多 いので、海の荒れ方にも拠りますが、島の西側から上陸出来ない日でも、鉱業所側からは 問題なく上陸出来たと言われています。





屋上に無数残る煙突は「竈」が使用された時代の名残ですが、今ではこの島特有の 風景になっています。余談ですが、この煙突だらけの空間にも簡易住居を設置した 時代がありました。





島の高台には神社の跡と判る構造物が存在。木造の本殿は崩壊して姿はありませんが、 無人島になって30年を経た今もコンクリート製の神殿だけは当時の姿を留めていました。

貯水槽へ通じるルートから撮影していますが、この電柱は撮影した翌年には姿を消していました。





65号棟の屋上から撮影していますが、特徴的な姿の煙突が印象に残りましたが、 屋上には増築された簡易住居や農園の跡などが存在。軍艦島らしさが良く分かる 絶好の撮影ポイントでもありました。





3号棟屋上で撮影していますが、コンクリートの僅かな亀裂にも植物は根を張り、 秋口には美しい花を咲かせていました。





3号棟屋上から撮影していますが、緑で覆われているのは日給住宅の屋上です。 以前は青空農園として島民に親しまれた場所であり、日本における屋上緑化の先駆け でもありました。撮影を始めた当初は鉄製のブランコが残っていましたが、 今は残骸となって雑草の中に散乱しています。





3号棟は島の最頂部に建っているので屋上からの見晴らしは最高で、 島の全体像をほぼ掴むことが出来ます。島は年々その姿を変えていますが、 眼下に見える建造物の状態から撮影した年代をある程度特定することも出来ました。 波が穏やかで天気が良い日には釣り舟の姿が数多く見られ、上空を通る飛行機や ヘリコプター、巡視船や警備艇の姿を見かけることも度々ありました。





木材が散乱し、緑の目立つ場所には炭鉱長の住居や職員クラブなどが あったのですが、今は当時の姿を想像するのも難しい程に変貌しています。 灯台は間近に見えますが、木々が生い茂った場所を通るか、遠回りを しなければならない為、簡単には辿り付くことが出来ませんでした。





3号棟の上層階は展望が素晴らしく、閉山前までは別荘を彷彿させる 姿であったと思われます。ただ、周囲に何も無いため風圧をもろに受け易い 場所でもありました。屋上のコンクリート製囲いの約半分は相当早い時期に崩落 しており、撮影を始めた1991年には既にその姿はありませんでした。





3号棟からは鉱業所の風景を一望することが出来ました。工場が稼動していたころは 眼下に壮観な風景が広がっていたのですが、閉山後に大部分の施設が撤去され、 荒れてもいるので、現在の姿から当時を想像するには困難なものがありました。





51号棟の階段窓から見える風景ですが、当時の島の住民にとっては 殆ど意識することもなく、普通に目にしていた日常風景の一つだったと思われます。





アパートからアパートへの移動の為に掛け渡された連絡橋は、 この島では当り前の存在になっていて、57号棟の屋上から56号棟の二階 にも連絡橋が掛け渡されていました。





日給住宅と51号棟間には空中廊下が掛け渡されていたので、地上に降りる ことなく各階への移動をスムーズに行うことが出来ました。





この島の中に存在する住居には、張り出し構造の外通路が幾つもありますが、 今では亀裂の走った所も多く、自身の重みで崩落した所もありました。





同じ場所を撮影していますが、近い内の崩落を予感していた場所は翌年落下。 2階の崩落部分を破壊し、裏返しになっていました。

アパート間の連絡に木製の橋を使用した場所もありました。腐食跡は殆ど無く、 今も立派に使用可能に見えましたが、地上からはかなりの高さがあったので、 命賭けてまで渡る気にはなれませんでした。





この階段は、アパートとアパートとの間に残る外階段の一つで、以前は木製の 手すりが付いていました。しかし、腐食が進行し、無人島になって20年を経た頃に 姿を消しました。

階の移動の為に外階段が使用される状況はここでも見られ、木製手すりが存在した 痕跡も残っていました。





日給住宅一階は半地下構造の為、台風接近時は海水浸入の恐れがありました。 この為、入り口には防潮板を嵌め込む造りを設けている所が目立ちます。





日給住宅は棟と棟との間隔が狭く、その底には大量の木材が散乱。 季節や年によっては緑で覆われることもありました。

17号棟は低い階ほど居住空間が広く、階が上がるごとに居住空間が狭くなる 造りになっていました。採光を考えたものか、建物の強度を増すための構造 なのかは判りませんが、この棟にだけ見られた独特の造りの為、かなり 実験的な意味合いがあったことが想像されます。





日給住宅6階から地獄段を撮影していますが、アパートも階段も島の岩盤とも一体の 造りになっていて、軍艦島らしさが感じられる場所でもありました。

神社から降りる階段から撮影していますが、直下に見えるアパートが9階建てで あるにも拘わらず、その最上階からアパート内部へ簡単に入ることが出来ました。





21号棟の最上階からも外に出られる造りが存在。中央社宅や日給住宅、 教員住宅や公園など、色々な方向への移動がとてもスムーズに出来、 便利さと実用性を実感しました。





教員住宅13号棟はこの島の中で最後に建てられた建築物の為、傷みも少なく 僅かな手入れで充分に使用可能に見えました。この建物も例に漏れず、 その最上階から外に出られる造りになっていました。

2号棟から山道へ降りる通路から撮影していますが、今は木々が茂って いて、通り抜け困難になっていました。





左右のアパートの地下には大きな空間が広がっており、無人島になる以前は 会社経営の商店が入っていました。また、空間の一部は共同浴場として使用され ていました。





25号棟は一階がスナック喫茶、二階から上は宿泊所や職員の住居になっていましたが、 内部階段が一部にあるものの、階を移動する為の通路や階段は外付けになっていました。





木造の住居や屋上に建てられた住居は崩壊したものが多く、当時の姿を想像 するのも困難な状況になっていました。





この島唯一の寺「泉福寺」は当時の面影もなく木材の山と化していますが、 その入り口だった付近には今も当時の石仏が残っていました。





高台に建つ右建物は共同浴場で、コンクリート建築ですが、以前はその上に 木造二階建ての職員住宅が乗っていました。残念ながら木造建築は崩壊が進み、 当時の面影を感じることも出来なくなっています。





第二立坑へと通じていた検身所から見える鉱業所の一風景ですが、 緑に覆われた場所に線路が走っていた風景も過去のものとなり、 その現場に立っても当時の様子を感じることは出来ませんでした。





手前の構造物は第四立坑跡で、やぐらは姿を消し、地底に通じていた穴も 埋められていました。しかし、当時の設置場所や痕跡が残っているだけでも 貴重な存在でした。





緑なき島のタイトルで映画も作られたことのある軍艦島ですが、今は 何処を見ても緑が目立ち、通行困難な場所も徐々に増えていました。





鉱業所事務所だった建物も崩壊が進み、事務所の面影も感じられない程に なっています。





古い時代の造りと、当時としても最新の造りが混在する軍艦島。 風化は進んでも建築博物館と言われるだけの見応え風景に満ちていました。





大型台風の直撃で護岸が決壊し、映画館はほぼ全壊。瓦礫の山が生活道路を 塞いでいたので、端島銀座方向への通り抜けは難しくなっていました。





土地流失後も校舎裏側の埋め戻しはされず、今も広い範囲で基礎杭が丸見えの状態 になっています。水面は満潮時と干潮時で水位が変わりました。





病院付近まで進むと、急に護岸が高くなっていました。





護岸は、島の西側が高くなっていて、その厚みも一様ではありませんでした。





右建物には大きな穴が開いていますが、その二階部分からはコンベアーが延び、 石炭以外のボタを海へ捨てていた時代がありました。一時は護岸に沿って浜が 出来た時もありましたが、現在では浜があった当時を伺わせる痕跡を見付ける ことは出来なくなっています。





ここは台風接近時に物凄い潮を打ち上げる場所の一つで、過去には何回も護岸決壊を起こして おり、アパート屋上の高さを越える潮を打ち上げることも普通のことでした。





沖合いは時化た様子も無いのに、この場所だけは何故か大荒れになっていました。 ここは巨大な潮を打ち上げ良い場所で、台風接近時には島の最頂部を越える程の 潮を打ち上げることがありました。





時化ていなくてもうねりの大きい日は、高さ約10mの護岸を越える 潮が簡単に上がりました。





進発所から二階事務所へと上がる通路から撮影していますが、事務所は完全に 崩壊している為、屋根のフレーム材や散乱する木材の一部が見えていました。

第二立坑巻き座跡の地下空間で撮影していますが、コンクリートの柱が並んでいる ばかりで、当時の様子を想像することは出来ませんでした。





レンガ壁を有する建物は四坑上げ屋と呼ばれた建物で、いわゆるエレベーターの動力 装置の為の施設でした。近くには第四立て坑跡が残っており、地上と地底を行き来する ケージ「籠(箱)状の乗り物」を動かしていました。





この通路は鉱業所の敷地内にあり、船着場へと通じる生活道路になっていました。 貯炭場に野積みされた石炭の浸入を防ぐ為、コンクリート製の隔壁がありましたが、 今も当時を彷彿させる面影は一部に残っていました。





炭鉱では送風機のことを扇風機と呼んでいました。ここは540kWもの大きな扇風機を 設置していた場所で、地底の隅々まで新鮮な空気を流通させる為に使用されていました。





鉱業所敷地内は、地面が荒々しく掘り返された様な風景が広がっています。地面を 良く見ると桟橋と住宅街とを結ぶトンネルの天井部分が露出していることが分かります。 内陸部の倒れた護岸やその周辺の状況を見れば、この場所が凄まじい状況に晒された ことも分かります。恐らくこの時の激流の圧力で、進行方向にあった建物を破壊した と思われます。事務所一階の浴槽内に飛び込んでいる瓦礫の大きさや数を見ても、 島内部に雪崩れ込んだ激流の凄まじさを想像するには充分なものがありました。





あらゆる物が解体撤去され荒れていたので、現場を探索しても何がどの様に配置され 機能していたのか、想像する手掛かりは殆ど残っていませんでした。第2立て坑へ通じ ていた鉄橋状の階段通路は、2006年に接近した台風13号の影響でフレーム部分が吹き飛 ばされてしまいました。





もはやどの様な設備が配置され稼動していたのか想像するのも困難な場所ですが、 資材倉庫のものと判る煉瓦片が無数散乱していることから、この場所にも激流 が走ったことが判りました。





手前はトンネルコンベアーの一部で、石炭をベルトコンベアーに落とすシュートの一部 が見えています。このトンネルコンベアは約100mの長さがあり、途中で枝分れして います。大部分は地下に隠れているので、外見から全体像を伺うことは出来ません。





まるで大量の海水で洗われたかの様にコンクリート地面が露出し、無数の瓦礫も 押し流されたかの様な姿を見せていました。





箱型のものはプールで、夏には子供たちの歓声が響いた場所でもありました。 また、水が入っていない時期でも球技場など、子供たちが年間を通じて遊べる 場所になっていました。





島への出入り口でもあった付近はコンクリート地面が無くなり、地中に埋もれていた ものが丸見えになっていました。





検身所からは鉱業所のさらに広い範囲を見る事が出来ました。 それにしても残っているのはコンクリート製の構造物ばかりで、 鉱業所の当時の複雑な造りを想像することは出来ませんでした。





体育館は二階建ての構造ですが、今は屋根も殆ど無くなっていて、内部は 丸見えの状態になっています。一階は武道場と給食調理室になっていましたが、 武道場内部には落書きが目立ち、給食調理室も面影が消えつつありました。





鉱業所事務所二階出入り口付近から見える風景ですが、非日常の風景がここでも 見られました。





地面にぽっかり開いた四角い穴が気になって覗いて見ると、内部は大量のボタで 埋まっていました。その特徴的な内部構造と、施設配置図上の位置関係から、 旧第三立坑跡の可能性が高いことが判りました。





軍艦島は釣りのメッカでもあり、土・日や休日には釣り人の姿が良く見られます。 釣り人が立っている付近は南部護岸で、平成3年には大型台風18号の直撃で決壊 したことがあり、平成18年にも台風接近時に決壊したことがありました。 現在は護岸も修復されており、上陸観光予定場所の整備が行われています。





撮影時期は恐らく5月と思われます。天気が良い日には沖合いに数十隻の遊漁船が 停泊し、魚釣りする様子が見られました。





西部護岸から撮影していますが、休日には護岸から竿を伸ばす釣り人の姿がよく見られます。 護岸から20m程沖合いにはカヌーが浮かんでおり、気持ち良さそうに進んでいました。、 以前この付近は捨てられたボタで浜が出来たこともありましたが、今は岩礁が見える本来の 姿に戻っています。





海中には今も護岸の大きな欠片が存在。比較的に浅い海底が広がっています。 押し寄せるうねりは海底が浅くなると波高が高くなる特性があり、くの字に 折れた護岸の造りも関係してか、この場所は巨大な潮を打ち上げ良い場所 でもありました。





護岸の外にあるコンクリート製の人工島はドルフィン桟橋と呼ばれ、無人島になる 以前は可動式の鉄橋が掛かっていました。しかし、台風接近時には物凄い潮が走って 来るため、鉄橋は飛ばされて海の藻屑と化すことも度々ありました。現在、この ドルフィン桟橋は、上陸観光開始時期に間に合う様に工事が行われています。





軍艦島に程近い中ノ島の山頂には、端島島民の為の公園が存在。海岸から少し 上がった所には今もコンクリート製のベンチが残っていました。恐らく 当時の住民もこの場所から自からが住む島の姿を見つめていたのでしょう。


戻る